非二元などのお話し会

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zoom RSS 第1章「私はいない」について

<<   作成日時 : 2016/07/01 21:09   >>

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良く聞くキーワードですよね。これは、我々が「自分」として認識している「身体(自我)」は、実は「幻想」であって、そのことに気付いている「真我」とでもいう存在(気づきの意識・普遍意識など)は、個別性のないもの(全体・ワンネス)だという見方です。

ここでは、用語として、便宜的に、あえて「私」を2つに分けています。
「自我(エゴ)」と「真我(本質)」です。
自我は、身体の防衛本能ですが、過去の記憶を引っ張り出して、あるいは将来の成り行きを案じて、アレコレと悩む、苦しむという余計な機能も持っています。これが曲者です。真我は、今という瞬間、ただ静かに、自我がもがいている姿に気づいている、本当の私です。

前者の認識する世界を「相対世界」、後者の視点を「絶対世界」などとも言います。もっと簡単に対比すると、「二元」と「非二元」です。「色」と「空」とも。だからと言って、この2つは別々に存在している訳ではありません。「相対世界」や「二元」や「色」を成り立たせている本質が、「絶対世界」や「非二元」や「空」と言われるのです。

自我の主な作用は「比較」と「欠乏感」でしょう。そしてそれらに伴う「恐怖」です。我々の悩み事は「あの人に比べて自分はまだまだだ」とか「私が悟るには、まだ修行が足りない」と言ったことであり、巧妙に我々を絡めとります。この辺のことを、大和田菜穂さんは「居心地の悪さ」と表現しています。

また、時間と空間は、自我が紡ぎ出した幻想、つまり、我々が日常に体験しているものごとは、幻想らしいのです。真我には、瞬間の一点(または全体)があるだけで、このことを、じゅんころさんは、「コレしかないでぇ〜」と言っているのだと思います。

つまり「私がいない」とは、日常生活で何かをしでかした「私」はまったく存在しない、というよりは、それをしでかした「私」は本当の私ではなく、本質の私ではないアバターみたいなものだという感じだと思います。この世界では色々な現象が移り行くけれども、それは誰が引き起こしたものでもない。

自然現象に、あちこちのアバターの意思や言動を含めた全体の現象があるだけということです。つまりPCゲームの本質がゼロと1の羅列なのに、いろんな物語があるかのように見えるようなもんです。その意味で「私」は実在せず、それらしきものが幻想として存在しているように見えるのだと思います。

というわけですが、「私がいない」についての文章を、雲黒斉さんのブログから引用したいと思います。

>「ありとあらゆる存在は分裂していませんよ」なのですから、
>「他と分離された、個として存在する『わたし(あなた)』
> などありえませんよ」ということになり、それが「わたしはいない」
> という一言で表現されたりするわけです。
> ですから、「わたしはいない」というこれは、あくまで
>「個という分離の否定」であって、「存在の否定」ではありません。

この文章でおかしいのは「存在という意味では、わたしは存在する」と読める点です。しかし、「わたし」の「個という分離の否定」は、必然的に「わたし」という言葉自体が意味をなくすのではないでしょうか。

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